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コラム歴史

六大茶類は誰が作ったか。統購統銷から「科学で茶を評価する」時代まで

緑・白・黄・青・紅・黒の六大茶類は、1979年に安徽農学院の陳椽が教科書のために整理した分類。その背景には、茶が国家の輸出物資として等級で買い上げられた計画経済の30年と、文革後に大学と名茶が復活していく転換期がある。分類の誕生を、中国茶業の近代史の中に置いてみる。

六大茶類(ろくだいちゃるい)の用語ページには、1979年に陳椽(ちんてん)が体系化した、と書きました。この記事はその一行を広げるものです。なぜ1979年だったのか。それ以前の中国で茶はどう扱われ、どう評価されていたのか。そして分類が生まれたあと、中国はどうやって「科学で茶を評価する」国になっていったのか。分類の話というより、中国茶業の近代史の話になります。

陳椽という人

陳椽(1908〜1999)は福建省惠安(けいあん)の生まれで、1934年に北平大学農学院の農業化学系を卒業しました。戦中戦後は英士(えいし)大学や安徽大学で教え、安徽大学農学院の茶葉専修科主任を経て、1952年の院系調整以降は安徽農学院(あんきのうがくいん)(現在の安徽農業大学)茶業系の主任を長く務めます。1949年から51年にかけて『茶樹栽培学』『茶葉製造学』『茶葉検験』など中国最初の大学用の茶学教科書を書き、1950年代後半には四年制本科向けの教材一式を同僚と整えました。中国の大学で茶を教えるための土台を作った人、と言ってよいでしょう。

その陳椽が『茶業通報』1979年第1期に発表した論文が「茶葉分類的理論与実際」です。ここで彼は、茶の分類は製法を基礎にすべきだとし、次の三つの筋が通ることを分類の条件にしました。

  1. 製法の系統性。同じ茶類は同じ特徴的な工程を持つ(緑茶なら殺青(さっせい)、黒茶なら渥堆(あくたい)、など)
  2. 品質の系統性。製法が同じなら色や香味の傾向もそろう
  3. 内質の変化の系統性。葉に含まれる黄烷醇類(おうかんちゅんるい)(カテキン類)がどれだけ酸化するか、という化学的な順序

そして「発酵の度合いだけで分けるのは、区別がつかず、正確でもなく、実際とも食い違う」と、発酵度による分類をはっきり退けています。黄烷醇類の変化量が少ない順に並べると緑・黄・黒・白・青・紅となり、それは茶が歴史上生まれた順序(緑茶が最初、烏龍茶と紅茶が最後)とも重なる、というのが彼の主張の核でした。分類の理論は後に『茶業通史』にも収められ、中国の茶学教育の標準になります。

なぜ1979年だったのか

1979年という年は偶然ではありません。文化大革命が終わったのが1976年、改革開放が始まったのが1978年です。大学が正常に戻り、教科書を作り直し、学会誌が再開された、その最初の時期に書かれた論文です。陳椽は当時71歳で、戦前から書き続けてきた教科書を、ようやく落ち着いて体系化できる状況になった、と見ることができます。

ここで、それ以前の30年間、中国で茶がどう扱われていたかを見ておく必要があります。

統購統銷の30年。茶は「等級」で買われた

1949年11月23日、建国からわずか2か月で中国茶業公司が設立されました。初代総経理は呉覚農(ごかくのう)、戦前に復旦大学に中国初の大学茶学課程を作った人です。茶は国家が一括管理する物資に指定され、生産・収購・加工・国内販売・輸出のすべてを国が握りました。目的は明確で、ソ連からの借款を返すための輸出品でした。紅茶の生産が拡大され、上海・杭州・無錫で製茶機械が作られ、産地には国営の加工工場と収購站が置かれます。1955年以降、収購と加工は供銷合作社系に移り、農業・外貿・供銷の三者で茶を管理する体制が1980年代まで続きました。

この体制で茶をどう「評価」していたかが、この記事の本題に関わります。答えは「標準様に対する等級」です。1954年には主要な輸出緑茶の標準様が形になり、1962年までに紅茶・烏龍茶・白茶・花茶を含む輸出茶の規格化が一段落しました。産地側では、毛茶(農家が一次加工した茶)を買い上げるときに、あらかじめ作った実物の標準様と見比べて等級を付け、等級で価格が決まります。これを対様評茶(たいようひょうちゃ)と言います。1979年の供銷合作総社の文書には、その原則が「内質と外形を等しく重く見る、乾いた葉と湯を出した葉の両方を見る、項目ごとに等級を付けて総合平均する」とあり、半級の扱いや、審査の技術誤差を5%まで認めることまで細かく定められています。

たとえば西湖の龍井では、1954年に浙江省が毛茶標準様を10級で定め、同じ年に中国茶葉公司浙江省公司が国内向けの加工標準様を「獅峰(しほう)特級、梅塢(ばいう)特級、獅峰上級、梅塢上級、一級から七級」という並びで作りました。清代以来の「獅・龍・雲・虎・梅」という産地の字号は、標準様の名前の中に痕跡として残っています。しかし評価の単位はあくまで等級であり、どの畑で誰が作ったかは価格に乗りませんでした。茶は「良い等級の茶」として集められ、拼配(ブレンド)されて輸出茶号の番号で取引される。それがこの時代の茶の姿です。

「標準化のせいで階級がなくなった」と言われることがありますが、正確には逆で、この時代の茶は等級がきわめて細かく、しかもその等級がすべてでした。消えたのは等級ではなく、産地と作り手の名前、そして名茶の多様性です。名茶は生産量が少なく、輸出の主力である大宗茶の陰に隠れます。茶館も同じで、成都の茶館は1950年から1976年にかけて衰退し、文革の時期にはほぼ姿を消しました。1958年に杭州に設立された中国農業科学院茶葉研究所も、文革の時期は研究がほとんど止まっていたと伝えられます。

一方でこの時代に整えられた「標準様と等級で評価する」という発想と、そのための審評の技術は、そのまま次の時代に引き継がれます。陳椽の分類も、この評価体系の上に立っています。

転換。名茶の復活と市場の開放

1980年代に入ると、輸出は頭打ちになり、国内の販路は一本しかなく、産地に茶が余る「売茶難」が起きます。ここから転換が始まります。

1982年6月、商業部が湖南省長沙で建国後初の全国名茶評選会を開き、82の茶様から30の名茶を選びました。目的は「伝統名茶の採製工芸を継承・発展させる」ことと明記されており、名茶を名前で評価する枠組みが公式に戻ってきた出来事です。いま「中国十大名茶」として流布している一覧の多くは、この評選会に起源をたどれます。

1984年6月、国務院は「国発〔1984〕75号」で、辺境の少数民族向けの辺銷茶だけ国の派購を続け、国内販売用と輸出用の茶は「徹底的に開放し、交渉による売買にする」と決めました。理由として文書は、計画で統制しすぎて流通が滞り、国内市場は「あるものを売るだけ」の受け身になり、輸出茶は赤字が大きい、と率直に書いています。1984年に試行、1985年に全面実施です。茶は国家の物資から商品に戻りました。

以降、1980年代後半に中国の茶業は輸出から内需へ軸足を移し、名優茶の生産が急増します。1999年には名優茶の生産量が13.4万トン、産値が54億元で、茶の農業産値の6割ほどを占めるまでになりました。西湖龍井では1988年に実物ではなく文字で書かれた最初の地方標準が作られ、2001年には原産地域産品(現在の地理標志(ちりひょうし)産品)として保護され、獅峰や梅塢といった産地の名前が再び前面に出てきます。成都の茶館は1979年以降、個人営業の解禁とともに一気に復活しました。テロワールという言葉は使いませんが、産地と作り手を評価する感覚が戻ってきたのは、この1980年代から2000年代にかけてです。

「科学で評価する」体制の整備

名茶が商品として戻ってくると、こんどはそれを誰がどう評価するのかが問題になります。2000年前後から、中国はこれを国家の職業と標準の形で整えていきました。

出来事
1999年頃茶芸師が国家の職業分類に加わる(資料により1995年とも)
2001年評茶員が職業分類に加わる。茶芸師の初回技能試験
2004年評茶員の初回技能試験
2009年茶葉感官審評方法が国家標準に(GB/T 23776。2018年改訂)
2014年茶葉分類が国家標準に(GB/T 30766)。六大茶類の明文化
2019年団体標準制度が動き出し、茶業団体が自ら標準を起草できるように
2020年末評茶員が国家職業資格目録から外れ、企業や第三者機関の技能等級証明に移行
2023年ISO 20715「茶の分類」成立。六大茶類が国際規格に

ISO 20715は、2008年から安徽農業大学の宛暁春(えんぎょうしゅん)が作業部会を率い、15年かけて成立させたものです。陳椽の分類が、彼の勤めた大学の後輩の手で国際規格になった、という筋書きになっています。

大学も増えました。1940年に復旦大学に始まり、1952年に安徽農学院へ移った茶学は、1980年代後半の内需転換のなかで各地の農業大学に広がり、いまでは浙江大学、安徽農業大学、湖南農業大学、雲南農業大学、華南農業大学、福建農林大学など、茶を作る省にはほぼ必ず茶学の学部があります。本科課程を持つ大学は30校前後と言われます。研究の対象も栽培や製茶から、成分の化学、官能審評、茶文化やマーケティングまで広がり、企業が大学を作る例(天福茶学院)もあります。審評(しんぴょう)の技術が国家標準と職業資格で支えられているのは、この学問の厚みがあってのことです。

台湾と日本から見た六大茶類

ところで、日本で「六大茶類は発酵度の違い」と説明されるのはなぜでしょうか。ひとつの見方として、1970年代の日中国交正常化以降、日本に中国茶の情報が入ってくる主な経路が台湾だったことが挙げられます。台湾の茶業改良場は現在も、製法による六分類と並べて「不発酵茶・部分発酵茶・全発酵茶」という発酵度の三分類を公式に使っています。当時の政治状況で、中国大陸から出てきた分類を台湾側がすぐに受け入れにくかった、という推測もあります。中国側でも、消費者向けに茶を整理した荘晩芳(そうばんほう)の『飲茶漫話』が出たのは1981年で、それ以前は製法の説明そのものが整理されていませんでした。

つまり日本に届いた「発酵度」の説明は、陳椽の分類が確立する前後の、情報が乏しかった時代の産物です。陳椽自身が発酵度による分類を退けていたことを考えると、分類の原点に戻るなら「製法の違い」と言い直すのが筋です。

まとめ

六大茶類は、文革後に大学が立て直される中で、教科書を書くために整理された分類です。その背景には、茶が国家の輸出物資として標準様と等級だけで評価された30年があり、分類そのものはその評価技術の上に立っています。そして分類が生まれた直後に市場が開放され、名茶と産地の名前が戻り、評価を担う職業と標準が整えられ、大学が増え、最後に分類が国際規格になりました。「科学で茶を評価しよう」という中国の動きは、計画経済の遺産と、それを乗り越えようとした改革開放の産物の、両方でできています。

参考リンク